ひとり反省会 慢心と邪険な扱いと敬意

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今朝の瞑想では「何もかもが変わりゆく、確固たるものなどないと分かった今、一体何を頼りに生きていけばいいのか」ということと「自我の肥大が執着と嫌悪の根源にある」ということに思い至った。書きながらほぐしていきたい。

諸行無常と指針の揺らぎ

何らかの決意も、これこそが正解だと思っていた生き方も、どんどん変化していくことに気がついて、じゃあ何を指針に生きていけばいいのかということを考えたとき、最近よくTwitterで目にするブラユキさんの「抜苦与楽」しかないんじゃないかと思った。

ブッダは判断に迷うときの基準として、「自他の苦しみを減ずるかどうか、少なくとも苦しみを増さないかどうか」を挙げている。

たとえば件の父の喫煙問題。やめてくれと言ったところで、父はタバコをやめられない。まずやめられないことに苦しみ、そしてそれを私に嫌がられていると思うことによって苦しむだろう。そうして父が苦しむことを知っていて、自分の嫌悪感を解消したい衝動だけでやめてくれと言ったことに対して私も苦しむだろう。

状況を甘受する場合、父がタバコを吸うたびに私は自らの嫌悪感と煙を吸うことによる身体感覚の苦しみを味わうことになるだろう。

正解は、問いと同じレベルにはない。それは本当に何度も実感してきたことだ。

「なぜ父はタバコをやめられないのか」ではなく、まずは「なぜ私はタバコの煙を嫌悪するのか」から考えよう。

端的に、自我が肥大しているから、だろう。

「私は死にたくない」「この大事な身体を傷つけるものはみな敵だ」「この大事な私がいるのに自分の喫煙衝動を抑えられないなんて、なんて愚かなのだろう」「嫌いだ」「腹立たしい」

ということ。これを観察する解決の手立てはないのだった。

自我の肥大については、何度書いても書ききれない。とにかく慢心がすごく強い。

翻訳の仕事にしてみても、「こんなレートでは受けられない」「内税では受けられない」「なめてんのか」ってなる。

実際、フリーランスの翻訳者は立場が弱いから団結して戦おう、という動きはあるけど、それも慢心によるものなのかもしれない。知的作業、専門家と呼ばれる人で慢心のほとんどない人という人がいれば、ぜひ会ってみたい。慢心のない人は、どの世界でも成功するのではないだろうか。

では慢心が一切なく、無条件の愛だけでレート交渉ができるのだろうか。

ここで自分の波動が相手に与える影響が一番大きいと考えると、そもそもレート交渉をする、ということ自体を前提とするのがおかしいと思えてくる。こっちが慢心フルで相手と渡り合えば、相手も同じような波動を出してくるのは当然だ。

反対に無条件の愛、自他の穏やかさと幸福を願いながらやりとりすれば、それはそのままその取引に返ってくる。

先日、フリーランスサイトで引き受けた案件はまさにそんな感じだった。翻訳の仕事ではなく、今までやったことのないタイプの仕事で、互いに気持ちよくやりとりして、今までで一番いい報酬だった。

結局、翻訳の仕事に関して、私は「やりたいことではない」というのが前提にあって、「それでもやってやってんだからな」という姿勢があるのではないか。そんな気がする。

その気持ちよく進んだお仕事のときは、「私のできる範囲で精一杯やります」という姿勢だった。それも、相手がそれなりのレートを提示してくれたからだ。そのおかげで私のケチな慢心が傷つくことなく、「敬意を持って扱ってもらっている」と感じたから、こちらも敬意を持ってお返しした。

翻訳でも、「できる範囲で精一杯やる」という姿勢に変わりはないのだが、何か「ムリ」している感じが入っているのだ。

邪険に扱われると、邪険に対応してしまう。まずはこちらから相手には常に敬意を持って接すること。そして相手に邪険に扱われているな、と感じたときは、「邪険に扱われて慢心が疼き、怒りが発生しようとしているな」と自分自身に予防線を張っておくことかな。

当面はこのことに気を配って生きようと思います。

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