自分もあの人も実はロボット

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今朝の瞑想では、人間はみな機械であり、その機械に対して「こうあって欲しい」「こんな風にして欲しい」「愛している!」と叫んでいるのが現世の人の姿である、ということを思った。そう叫んでいる自分も機械だと。

「自分が」考えて「自分で」選択していると思っているのが普通の人間なわけだけど、その考え、その選択、感情や思考もみな、「自動的に」浮上してくるもの。刺激が入力されて、それに対して完全に自動的に感情や思考や行動が生じるだけの機械なのだ。そこに「自由意志」は一ミリもない。

仏道では「諸法無我」と呼ばれている。

諸法無我:仏語。三法印の一つ。この世に存在するあらゆる事物は、因縁によって生じるものであって、不変の実体である我は存在しないという考え方。諸法皆空。ー精選版 日本国語大辞典

瞑想生活を通じてこのことがいよいよ実感できるようになってくると、「自分を含め、みな機械なんだ」というのをふとした時に思ったりするわけです。

手塚治虫の漫画『火の鳥』にそういうのあったな〜と思って探してみたら、確かにありました。こちらのブログに詳しく説明されています。(ちなみにすごく完成度の高いブログ記事です。これぞブロガー)

マンガタリ 想像を超えたマンガの楽しみ方 『火の鳥『復活編』に観る人間の蘇生&ロボットと共存する明るい未来とは?』

手塚さんは名作『ブッダ』を描いているし、『火の鳥』では永遠の命をテーマにしていて、やはり仏教的観点を持っておられるのかなと思います。

で、人間は実は機械というお話ですが、ひとまず自分自身のことは置いておいて、自分の身の回りの人たちがロボットだと想像してみたらどうでしょうか。ターミネーターみたいな感じ。

私はこれを想像した時、割とはっきりとした違和感を感じました。違和感というか、事実を突きつけられたけど、認めたくない、という執着の燃えかすというか。

どれだけ好きだと思ってきたパートナーでも、実は機械(ロボット)で、その機械の発言や行動に一喜一憂している自分もやはり機械なのだとわかったからです。

こうしてブログを書いているのも、毎朝毎晩瞑想しているのも、その言動をもたらす過去の記憶のつみかさね(縁、因)があって、そこから自動的に行動を起こす衝動(起、果)が発生しているだけ。

自分というのは本当は存在せず、ただ内部、外部からの刺激に対して過去の記憶の累積からの反射が生じて、またそれに対する反射が生じて、とただただ心的事象が万華鏡のように展開していくだけなのだと。

なのにまるで「自分の」感情、「自分の」意見、「自分の」発明、「自分の」手柄、「自分の」お金、「自分の」身体、「自分の」子ども、「自分の」親、「自分の」仕事、「自分の」発明、「自分の」人徳だと勘違いしている。

自分で取捨選択した結果、これを手に入れた、反対に「あいつのせいで」自分はこんな目に遭わされた、という間違った認識が生じているせいで、苦しみが生まれている。

とこう書いているのも、私のこれまでの記憶が「これを書いたらよかろう」と私に書かせているわけで。

何が言いたいかというと、人間はみなロボットだ、と考えるのは、真理に近づく手立てになりうるということです。

もちろんこれを曲解して「だったら痛めつけてもいい」とか「感情なんて無視していい」ということではありません。感情や痛みもふくめて、ロボットなのです。

そして、大事に思っているあの人も、暴言を吐くこの人も、悲しみや苦しみを感じている自分も所詮はプログラム通りに動き、感じているだけの機械であり、みな「自由意志で」そうした行動や感情を選んでいるわけではなく、ただただ過去の記憶の蓄積がそういう言動や感情をアウトプットさせているだけなだ、と考えると、いくぶんラクになるのではないか、ということです。ハイ。

言動も思考も「自分の意思で」選べないのであれば、努力したりより良い生き方をしようと思ったりするのも「自分の」意思ではなく、それまでに見聞きしてきた体験に基づく反射でしかない。ブッダもそうした反射を蓄積した結果、「悟りを開こう」と思い至り、無事に悟りを開いたということです。

悟りにつながる記憶の蓄積=プログラムが徳と呼ばれるもの。反対に自他の苦しみを増す方向に動くプログラムが悪徳と呼ばれるもの。

そして、自分はロボットであり、今ここで感じている感覚や思考、衝動もみな自動反射の結果に過ぎない、という自覚を失わないことによって、少しずつ不要なプログラムを削除していくことができる、というのが仏道の教えの真髄だと理解しています。

今日はそんな感じです。

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